■お知らせ

平成27年09月13日 幟竿挟み部分の改修を行い、無事完成しました。
平成27年09月20日 吾妻神社例大祭が開催されました。
平成28年1月1日 吾妻神社で初太鼓が披露されました。
平成28年2月3日 吾妻神社で節分祭りが開催されました。
平成28年9月18日 吾妻神社例大祭が開催されました。
平成29年2月21日 30年くらい前の吾妻神社例大祭の動画を拝聴しました。
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幟竿挟み部分改築に関する安全祈願祭






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吾妻神社例祭―馬出し祭り
富津市西大和田にある吾妻神社は、浦賀水道をはさんで神奈川県三浦半島に面した小高い丘の上にあり、弟橘媛(おとたちばなひめ)を御祭神とします。 伝説では日本武尊(やまとたけるのみこと)(倭健命)が東征の折り、海が荒れたので妃の弟橘媛が入水して、海神の怒りを鎮めたといわれます。そしてその遺品が海岸に流れ着き、馬がその御櫛をくわえて運び、今の地に祭ったのが吾妻神社の始まりといわれています。(古事記には、命たちは、上陸後七日目に海岸に媛の櫛が流れ着いているのを見つけ、優しくも哀れな媛のために、御陵(みはか)を作り、そこにその櫛を納め、ねんごろに祀ったとあります。) 吾妻神社は、富津市内の吉野郷七か村(この場合の村とは現在の最小行政区のことで、地元では部落といいます。具体的には、上・近藤・八田沼・西大和田・絹・中・岩瀬)の氏子が氏神様として崇敬する神社です。この吾妻という呼称には命の媛に対する思慕と感謝の念が込められています。 ところで、吾妻神社の氏子は七か村にまたがりますが、祭典の行事は毎年敬老の日前の日曜日に海から神社までの通路に当たる四か村(西大和田・絹・中・岩瀬)で執り行っています。年に一度「弟橘媛」の御霊を命との思い出深い海にまでお連れする儀式です。「馬出し祭り」の呼び名のとおり、かつては伝説ゆかりの馬の背に媛の御霊をお乗せして、海までお連れしたものと推測されますが、現在では神馬(じんめ)を先に歩かせ、御霊をお乗せした神輿を、大勢の若者たち(白丁)が各部落ごとにかつぎ、渡御します。
神馬とは、早朝海岸で清められたあと、背中に御幣を祀られた馬のことです。当日、獅子の奉納によるお山開きが行われた後、神殿で例大祭が始まると、神馬は参道、急な石段を駆け上がり、社殿を三周します。
神馬に先立ち、「おぶり」の奉納があります。太い真竹を二本一対にして中央にイナダなどの出世魚をつるし、白丁が集団でかけ声勇ましくもみながら、参道をねって、神前に献上する儀式です。その魚が、神輿につけられた後、神殿で輿に「御霊入れ」の神事が執り行われ、渡御が始まります。
神輿は、神殿前を三往復した後、石段を降り、村ごとの若い衆(白丁)によって、順送りに受け渡され、海岸まで運ばれます。この時、村ごとの境目はハチマキによって厳格に定められ、他村の者には絶対に侵されないしきたりになっています。また、渡御の際の神輿のかつぎ方は、世間一般的な練り歩くという形はとらず、かけ声をかけながら厳かに持つという雰囲気がかもし出されています。そして、各村とも、この祭典にゆかりある故事のあるところでは、神輿を差し上げ、気合いを込めて、三度(場合によっては五回)ほうり上げます。
海岸に着くと、神馬の両脇に、二人の若衆が手綱とタテガミをつかんでピッタリとしがみついて、浜を疾駆する儀式を行います。これが、吾妻神社の参道で行われた儀式とともに「馬出し」と呼ばれるものです。現在では、神馬と供馬が一頭だけ奉納されていますがかつては、農耕馬が何頭も奉納されたということです。
その後、神輿はたそがれた海に入って、弟橘媛の御霊を御慰めした後、盛砂の上に着御します。そして、これら「お浜人」の儀式の後、神輿は還御に移り、それからは、四か村のうち、還御当番に当たった村の若衆が主となり、他村の若衆が協力し合うという形で、神社まで還ります。執行責任者はじめ関係者は、提灯に灯を入れてつき従います。天気の良い日には延々と続く提灯の灯が、浦賀水道をはさんで三浦半島からも見えるそうです。 神輿を納めた後、手打ちを行い、各村ごとに下山して、祭りは終わります。
 (文責 藤倉冨二夫  参考文献:都道府県別祭礼行事・千葉県(桜楓社)ほか